08年11月22日、第2回アーキフォーラムが行われた。今回のゲストは小玉祐一郎氏。「高知・本山町の家/小玉祐一郎:環境との交感」と銘打たれた今回のレクチャーは、若い建築家が「環境」や「パッシブデザイン(一般的に、自然エネルギーの活用による環境共生建築の手法を指す)」という捉えどころのないテーマに、一筋の光を感じられる刺激的なレクチャーとなった。
客観化される「身体性」
高知・本山町の家で最も特徴的な事は、言うまでも無く熱・光・風などの解析技術を活用していることだ。小玉氏が、建築の形態を不自由にしかねないこれらの技術を使って、あえて快適さを「客観化」する事には、以下のような問題意識があった。
小玉氏によれば、21世紀の建築に必要なのは、外部環境に「開き」、さらに「身体性」つまり「身体で感じられる快適さ」を獲得することである。 しかし、一方で吉村順三、清家清、竹原義二を例に出し、建築家の主観に頼った「身体性」には異議を唱えている。つまり、「身体性」は客観化されるべきだと主張している。
小玉氏はこのような問題意識のもと、快適さを客観化するために解析技術の活用を勧めているが、特筆すべきは、解析によって得られた数値が、必ずしも建築形態の根拠になっていない事だ。(例えば、庇の長さはコンピューターによると75cmが最適解となるが、実際には120cmに設定され、ミースの建築のような美しい水平性とプロポーションを強調している。また、大自然に開かれた内部空間を、適度に包み込んでいる。)つまり、そこには「小玉氏にとっての快適さ」が存在している。その意味でこの住宅は、「建築家の主観による身体性」と「解析技術による客観化された身体性」という二種類の身体性を相互にバランスさせる、複眼的な手法によって実現されたと言える。
かつて原広司は、著書「集落の教え100」で、ヴァナキュラー住宅に潜む、意識化されない「高度な計画性」を指摘した。ヴァナキュラー住宅の本質は、そのような「無意識的な計画性」と「自動生成される形態」の調和にあるとも言えるが、他方、高知・本山町の家に、ある種の普遍性を感じるのは、同様の性質、つまり主観と客観のたゆまぬ往復が見られるからだろう。
「おもしろい」パッシブデザイン
しかし、いかに建築家の主観がパッシブデザインに大きく関与し、そのデザインプロセスの特異性に心酔していたとしても、小玉氏の振る舞いには、爽快感と同時に少しの違和感を感じた。
自らの設計手法を客観化するために、その有用性について説明的になってしまう事が、建築家の悪しき習性であるとするなら、小玉氏は真逆の習性を持っている。恐れる事なく自らの設計手法を「おもしろい」と繰り返す光景は、この手のレクチャーでは大変珍しい。
そもそも今回のテーマである「環境」あるいは「パッシブデザイン」という言葉に、おもしろさどころか、言いようのない閉塞感を感じている建築家も多いと思う。全世界的な社会的要請を無条件に肯定し、問題の核心が見えないまま、社会に対する批評性を失している(つまり正しすぎる)ように見えてしまう嫌いがあるのだ。
しかし、多くの建築家に閉塞感を与えているのが正しすぎる事に因るのだとすれば、小玉氏のポジティブな振る舞いもまた、正しすぎる事に因る。つまり、パッシブデザインはその正しさ故に、本来必要であるはずの野暮な説明をスキップし、最短距離で「おもしろさ」を目的とできることを、小玉氏の振る舞いは暗に示している。
助走してから跳躍する
そのような先天的な「おもしろさ」に気づく一方で、高知・本山町の家が持つ優等生的な佇まいに少しの物足りなさを感じていた事も確かだ。小玉氏が冒頭に批判したモダニズムの建築と、まさに共通の建築言語−水平性・ピロティー・ブロック積みの蓄熱壁…−が見え隠れすることは無視できない。また、発明的な建築に見られる、コンセプトが極端に純化された形態や空間とは本質的に異なっており、つまるところ「既視感」がある事も同様に無視できない。
実のところ2000年以降の建築で、高知・本山町の家よりもよほど刺激的な空間を提示しているパッシブデザインが無いわけではない。では、それらが建築の跳躍力かと言われると、決してそうではなく、その多くが助走なしの「垂直跳び」という事になるのだろう。
高知・本山町の家は一つのプロトタイプであるが、同時にプロセスでもある。そこにこそ、「建築の跳躍力」としてスポットがあてられた真意があると感じずにはいられない。