藤森さんの講演は、作品そのものというよりも、それにまつわる具体的な話が多かった。
今までに見た建築や素材、建築をつくる際の様々なエピソード。これらにより無限広大のフィールドが準備され、その上で作品についてもいつの間にか触れられたという印象を持った。それもそのはず、講演の途中で語られたのは「理論と作品は必ずしも一致しない」という考えである。多くの話題から生成される建築の面白さに、ある種の心地よさを感じた。冒頭から順を追って振り返ってみたい。
自然と人工物
まず、藤森さんが良いとする建物3点が挙げられた。ポルトガルの家、ジェンネの土で出来たモスク、三徳山三仏寺投入堂である。この中でも、ポルトガルの家と、投入堂のような建築をつくりたいという。ポルトガルの家は石と石の間に扉だけがつけられ、それに屋根が乗せられた、建築と自然の境界が不明確なものである。
投入堂については、その建物に登ったときに撮影された、対峙する向かいの山々の写真が紹介された。ハイデッガーの美学「神殿をなくしては地中海の青は存在しなかった」、あるいは「橋をかけなければ、川と陸地以外の“岸”という概念は無かった」という事例を通し、自然の利益・美しさを相対化できる人工物としての投入堂について語られた。「この点で20世紀の建築はあてにならない」。投入堂の場合、自然と建築は物理的な境界を明確にしながら、存在価値において互いの領域を往復しその境界は曖昧になる。自然と建築(=人工物)の関係というと誤解が生じるかもしれない。藤森さんが目指しているのは、自然と建築の状態ともいうような、決して分割できないもののように感じられた。
仕上げ・自然素材による表現
藤森建築の最も特徴的な点は、独創的な素材による仕上げである。
丸太から割板をつくり、大理石を原石の大きさで使用する。焼き杉板は通常2mで作られるところを4mの材で作る。ありとあらゆる自然素材に自らの手を使って真っ向から挑んでいる。プランや構造については、ほとんど興味がないという。工業製品や構造は、これら素材によってすっぽりと覆われてしまう。
仕上げに興味を持つ理由の一つは、素人でも施工できる点。構造・設備・可動部に関しては素人が施工するのは難しい。その中でも自然素材を扱うのは、材料そのものを研究できるからだという(凍結融解可の土を、自ら冷凍庫にて研究したそうだ)。また、最も楽しいと思うのは施工であり、「自らが施工できるように設計している」という。
今回の講演のあと、藤森さんのスケッチをいくつか書籍で拝見した。スライドで見た建物の写真・建物そのものと、スケッチとの間に漂う空気は驚くほど同質である。一般的に建築家はプランやディテールを考えるけれども、それを自らの手で施工することは少ない。藤森さんの場合、建築実物にこそ自らの表現の舞台があるように思われた。ディテールを考えるのが先生の仕事だと建築会社に文句を言われるほど、スケッチからすぐに自ら施工、建築そのものへと飛び込んでいく。はたして建築家による表現の舞台とは何処なのだろう。
緑化
緑化事例としてコルビュジェの屋上庭園が挙げられたが、サヴォア邸でもユニテでも屋上緑化は実は細々としか行われていない点が指摘された。藤森さんが自然と建築が美的に合う例とするのは、芝棟である。自然を建築に取り込み、美的に合わせるのは難しいという。自然と建築とが一時の美しさを成立させても、自然は一瞬にして状態が変化していくからである。ここでは自身による作品例として、ねむの木美術館、一本松ハウス、ツバキ城、ニラハウスが一気に紹介された。
茶室
藤森建築の茶室には、伝統に倣う点と反伝統的な点があるという。伝統に倣う点は、にじり口を持ち、小さな空間であり、室内に火がある(千利休による形式)こと。反伝統的な点とは、床の間は作らず、窓を大きく開け、畳・障子を使わないこと。伝統と反伝統を同時に持った茶室からは、純粋に茶を楽しむ爽快さが感じられる。
特にここで印象に残ったのは、最初に茶室を作った際、建築主に引渡したくなかったという話である。茶室という個人的な建物に対し、いかに自分のこととして取り組んでいたのかが良く分かる。ここで今回のフォーラムで本来召喚された高過庵と一夜亭が、幼馴染の手を借りた施工の様子や、具体的な寸法の決め方を通じてようやく語られた。
相撲をとるように見る
ディスカッションでは「自分で自分のことを考えないほうがいい」「言葉は建築のある部分だけを言語化している」と語られた。建築そのものを一人歩きさせることが、いかにその建築とそれ以外の世界の見え方を短絡的にするのか、或いはそんなことは不可能であると指摘されたように思う。今回のフォーラムが「作品ではなくて私自身が呼ばれたと思って来た」と始まり、数々の話題で構成された所以はここにあったのではなかろうか。
今まで“相撲をとるように見る”ことを繰り返してきたという。「良作はもちろん、どんな駄作であっても本人さえ気づかないようなことを見ること。それが出来なければ負け」。これは物事を発明・発見することの本質であり、その勝負毎に広がる世界の大きさを思う。
以上を振り返り改めて藤森さんの茶室の写真を眺めてみた。独特の表現でありながら背景の木々や山と違和感がない。見上げのアングルの写真を見れば、茶室はすっかり土で塗り覆われ明確に一つの塊として表現されている。その塊と大地の間にある杭が、建築と自然の距離感を保っている。その立ち姿に、まるで生け花のような調和が感じられた。