誰がために建築は建つか 第3回講演:柳原照弘
建築だけではないこと、その考察

1915/テーブルシェルフ/2009年
photograph by ISOLATION UNIT

 
タイトル:完全には理解し合えない私たちのために  執筆者:たかぎみ江(ぽむ企画)

「ボレロ」を聞いているかのような90分でした。

ストックホルムの路地裏で見た、小さなあかりの小さな体験から話は始まりました。手のひらサイズのプロダクト、次にインテリア、それからビル、紹介される作品は次第にスケールを大きくし、最後は、建築の枠を超え、もはやコミュニティづくりとも呼ぶべき壮大なプロジェクトで締めくくられました。

ピアニシモのフルートソロから始まり、一つの旋律が反復しながら、次第に楽器を増やし、音量を上げ、壮大なコーダへとなだれ込んでいく、あの名曲のような構成でした。

そして、旋律の後ろで一定のリズムを刻み続けるスネアドラムのように、最初から最後までぶれることのない一つの概念が貫かれていました。「デザインする状況をデザインする」というものです。

最後は立ち上がってブラボーを叫びたい気持ちでした。(本当に。)形式はどう見てもレクチャーでありながら、レクチャーらしからぬ体験をもたらしてくれた、柳原照弘さんの回をレポートします。


■おはよう朝日です

大学卒業後すぐにデザイン事務所を立ち上げたという柳原さん。初めて受けた仕事の話題でレクチャーをスタートさせます。さて、それは何だったか?


プロジェクターが映し出したのはなんと、関西の人にはおなじみのTV番組「おはよう朝日です」のロゴデザインでした。つかみはばっちりです。


■ものの外側にある、空気のある場所

続いて、自らのデザイン活動の原点となる、ある小さな風景が語られます。

デザイナーとしてのスタンスを確立したのは、大学2回生のときのストックホルム旅行だったといいます。料金が安いからとクリスマスシーズンに訪れたところ、街は休暇に入ってしまって、誰もいない。1時間とぼとぼ歩いて観光もしつくし、ふと裏道に入ったら、窓からもれてくる光が。ろうそくをともし、家族一緒に小さな食卓を囲む人たちがそこにいました。その風景が、デザインの原点になったといいます。

「僕がデザインしたいのは、コップでもインテリアでも照明でもいいんだけど、それを楽しく使っている光景」と話します。大学でプロダクトデザインを学びながらも、「ものの外側にある、空気のある場所」に関心があったという柳原さん。建築に目を向ける動機となったのでしょう。


■なんとなく共有している体験

デザイン思想の話が続きます。アートや文学作品を7つ8つ紹介しながらの解説。いくつか拾ってみます。

フェルメール「天秤を持つ女」。背景に「最後の審判」が描かれていることによって、女性が手にする天秤や真珠に別の解釈が発生します。誰もが知っている情報を少し加えることで、意味に奥行きが出ます。

ボルヘスの記憶に関する言説。コインはみな同じ形、素材でないとだめだけど、たとえば誰かが落として誰かが拾ったとしたら、その人たちにとってそのコインは特別な意味を持ちます。

デュシャンが仲間と遊んだ、イラストの伝言ゲーム。5秒間の記憶には、自分の想像を通じて得た新しい情報が追加されます。

これらを通じて伝えようとしているのは、私たちの記憶の不確かさ、不完全さと、不確かながらも共有している部分の存在です。「完璧に新しいものは提案できないし、完全に相手がいいと思うものは、他人である自分には作れない。でもなんとなく共有している部分はある」と柳原さんは言います。この共有部分に入り込みたいのだ、と。

それにしてもさっきから感心するのは、風景が目に浮かぶような話し方をすること。抽象的な哲学を語っているはずなのに、画像もたっぷり使い、視覚に訴えかけてきます。

そして、語られる意味内容を、語る方法によって実践していること。自らの思想を伝えるために、徹底して他人の作品を例に出すのですが、それは論文のように厳密さを求めるがゆえの引用でも、新たな解釈を披露するための引用でもなく、今まさに彼の伝えようとしている、私たちがなんとなく共有する記憶を喚起するための引用です。少しずつ異なる7つか8つのものの共通点を見つける作業を通じて、会場にいる私たちはなんとなくある一つのイメージを共有することになります。この言行一致が説得力の秘密だろうか、と思い始めます。


■余地を残す

ここでようやく自作の紹介に入ります。まずはプロダクト作品から。規模の小さいほうからスタートです。(ここではその一部のみ触れます。)

・PASTA JEWELLERY
ペンネに金属蒸着したネックレス。「パスタのデザインは風土や歴史を背負った、真のオリジナル。その力を借りて、別のものを一つ追加した。僕のオリジナルじゃないけど、僕のデザイン」。

・PUT IT
針がなく、二重の白い円盤だけの時計。付箋を貼ることで初めて円盤が回っていることがわかります。「時計は時間を可視化するものである」という時計の定義を明らかにしているとともに、「時間は意識を向けたときだけ認識できるものである」という時間の性質も可視化しているところが見事です。

・SLANT GLASS
普通のグラスを傾けただけの形のグラス。「デザインしてないじゃないかと言われる」そうですが、普通のコップでは気に留めない動作と現象との関係を意識せざるをえない状況を生み出します。

・SHIFTING VASE
だるま落としのようにずらした花瓶。買った人が自由に組み立てて使います。水を入れるところがないのでは、と一見不安になる形ですが、実はいちばん下の段だけ水が入るようになっています。「ずれてるからこそ花の生命を保つ方法が見える。経験や意識を少しだけ借りたデザイン」。

柳原さんは既存のものを躊躇なく利用します。そして、使い手に能動的な関与を要求します。(柳原さんは「余地を残す」という言い方をします。)人の経験や意識も共有部分として、躊躇なく利用するのです。人々が共有している部分の力を借り、少しだけずらす操作を加えることによって、そのポテンシャルを解放します。

柳原さんの語り口調はソフトですが芯があり、時々笑いを取ることも忘れません。ぐいぐい柳原ワールドに引き込まれていきます。


■色が存在する必然性

プロダクトデザインの紹介が続きます。次は海外で発表された作品です。ミラノサローネに毎年出品するなど、海外での活動も多い柳原さん。

・FLAMES
補色をテーマにした展覧会、「complementary colours」のために制作されたキャンドルホルダー。赤と緑の光を偏光するガラスでできていて、中で炎をともすと色が現れます。

・1915
同じ展覧会のローテーブル。引張力を担う垂直部材と圧縮力を担う垂直部材とが補色の関係になっています。構造家に計算で出してもらった形状を恣意的に崩したそうです。

FLAMESでは、色彩が存在する必然性があるのはどんな状況を考え、それを素材の構造に帰着させています。1915では、補色の性質を構造で表現。いずれも合目的的な解をものに帰着させる工学的なアプローチで、建築家には共感を得やすいはずです。

ちなみにこのテーブルは、KUENG CAPUTOの、誰かの作品からコンセプトを一つだけコピーして自分たちの作品を作る、という手法からヒントを得たとか。「彼女たちの作品を僕がコピーしたのがこのテーブル。そしたら彼女たちがこのテーブルをコピーしてくれたので、さらに僕がそれをコピーした」そうです。連歌のような遊戯ですね。明晰さと同時にこういう風流もあるのが柳原さんです。

・STOOLS
国内外のデザイナーが参加するカリモクの新しいブランド「カリモクニュースタンダード」に、クリエイティブディレクターとして参加しています。使う人の意志で用途を決められる椅子です。みんなすでに持っているようなアイテムだからこそ、「決めうちではなく、余地を残して」あります。

それにしても柳原さんのプロダクトは美しいですね。どれも精度が高く、洗練されています。


■「状況をデザインする」と「デザインする状況をデザインする」

レクチャーはこの後インテリアや建築作品の紹介に移るわけですが、その前に、このレクチャーの基調アイデアである「デザインする状況をデザインする」について軽く触れておきたいと思います。

「状況をデザインする」という表現はしばしば聞かれます。多くは、ものの形が誘発したり関係したりする行為や現象を含めてデザインするという意味で使われていて、同時代的な問題意識の表れた言葉です。柳原さんもむろんその問題意識は共有しています。

これに対し「デザインする状況をデザインする」は、そのデザインが必要な状況を自分たちで設定して作るという意味。すなわちデザイナーの役割を自ら決める態度のことです。「状況をデザインする」は対象に関する方法を表す語ですが、「デザインする状況をデザインする」は主体の態度に関する方法を表した言葉です。柳原さんがずっと重視している概念で、プロジェクトの規模が大きくなるにしたがって顕著に表れてきます。


■椅子を頼まれたはずが、ビルをつくっていた

さて講演はインテリアと建築のプロジェクトの紹介に入ります。

・APARTMENT+LIM
関西の美容室のリノベーション。スタイリストが独立して辞めていくのを防ぐため、一人一人に箱を用意しました。共用部分はギャラリーにして、スタイリスト自身が展示企画して遊べる「余地」を作っています。この試みは成功して写真集も制作され、店の名物になりました。何が求められているかをスタッフと一緒に考えた結果、経営安定とブランド化を実現した店舗デザインとなりました。

・日月餅
大阪の老舗の和菓子屋さん。めざしたのは、お餅が引き立つ空間。「旦那さんはお餅づくりだけに専念できるよう」にと、その他の仕事を引き受けてくれる「距離」をデザインしています。餅屋だとわかる距離、ちょっと入ってみようと思わせる距離、対面式で説明できる距離。これも店舗設計だけでなく経営計画、CI、商品開発まで携わっています。

・大阪美容専門学校
椅子を頼まれたはずが、ビルをつくっていました。当初の依頼は、家具制作の見積もりだったそう。でも柳原さんはすかさず建物も提案。「先生と生徒の距離感とか、学校としてこうした方がいいというソフトを提案しただけです」。その案が採用されて、なんと建て替えることとなったのでした。建築設計は市井洋右さん。


■場のデザイン

最後は、「デザインする状況をデザインする」を実践した結果、建築の枠にも収まらなくなってしまったプロジェクトの紹介です。

・小豆島プロジェクト
旅館をリニューアルするはずが、地域おこしに関わっていました。最初は宿泊施設を作ってほしいというリクエストでした。でもその家具、その建築が置かれるいちばんいい状況とはどんな状況だろうと考えたら、島内・島外の人が集まれる場所であるべきだ、でもそれには島に魅力がないといけない、ならば小豆島がどうしたら魅力を発揮できるか、オリーブや醤油や素麺などの地産品を生かして、小豆島でないとできないことができないだろうか……もはや一軒の旅館の改装計画ではなく、地域の風土と、そこに住む人々の暮らしも対象とした、エコツーリズムのデザインにまで発展しています。

・DESIGN EAST
「大阪に国際水準のデザインが生まれる状況をデザインする」ことを目指し、関西を拠点に活動する若手デザイナー、建築家、編集者、研究者5人で企画したデザインイベント。国内外から多くのゲストを招き、トーク、展示、ショップなどを企画しました。「そういう場を作るのも僕のデザインの仕事だと思っています。自分はインダストリアルでもインテリアでもなく、空間デザイナー」。

あのろうそくのある風景をつくりたい、という思いが、次第に規模を大きくし、いまや、地域デザインの域にまで到達しました。デザインする対象が広がってもクオリティは落ちません。小豆島も大阪も、とても魅力的な提案です。峰に落ちた一滴の水が大河に成長するさまを見るかのような感慨。ブラボー。ブラボー。


■柳原さんは何者?

今回のアーキフォーラムのサブタイトルは「建築だけではないこと、その考察」でした。でも、柳原さんはそもそも建築家と名乗ってはいません。大学ではプロダクトデザインを勉強していたし、これまで手がけた仕事も、ビルもインテリアもあるけれど、どちらかといえばプロダクトが多いくらい。

この人は何者?どんな立場でものをつくっているのだろう? 後半のディスカッションでは、そんなやや不思議なデザイナー柳原照弘の立脚点を探ろうとする質問がいくつか見られました。

「柳原さんの仕事は企画に近いのでは?」という会場からの質問には、「自分はやはりデザイナーだと思っています。でも自分がやりたいことを見つけるには、自分で企画するしかない。企画の人とデザイナーのちがいというより、それができるかどうかのちがい」。

この日のゲストコメンテーター倉方俊輔さんは、「デザインは問題解決、アートは問題発見。柳原さんの作品は問題に気づかせるところがアート的かも」と指摘。これに対して柳原さんは「ある前提から始まるのがデザインだったけど、もっと上流にいかないとだめ」。

制作ジャンルにかかわる質問に対しての柳原さんの回答は一貫していました。何をつくるかによらず、問題発見的なデザインをしたい、というものです。

「デザインする状況をデザインする」は、そんな柳原さんの姿勢を示すキーワードですので、少し掘り下げてみることにします。

■長くかわいがってもらう手法

まずこの言葉が示唆するのは、デザインする対象は限定しない、ということです。デザインの前提をどんどん上流に求めていけば、デザインするべきものの範囲も広がってきます。想像もしなかったものをデザインすることもあるかもしれません。

それから、クオリティコントロールの方法としての意味ももちます。椅子や什器をつくるならば、それらがより力を発揮できる場を考え、合わせてつくってやることでいっそう活躍させます。まるで子供によい環境を与えて長所を伸ばしてやるかのように。そう考えると、「デザインする状況をデザインする」は、世に送り出す製品の品質に責任をもち、長くかわいがってもらえるようにする手法であるともいえます。売って終わり、建てて終わり、とは反対の態度です。


■仕事ならある

そしていうまでもなく、ビジネス創出の方法でもあります。「『仕事がない』のではなく、『仕事がある場所を知らない』のだ」と彼は考えます。

もちろん、椅子の見積もりを頼みに来た人に「このさい建て替えましょう」と言って認めてもらえるというのは並大抵のことではなく、それは柳原さん個人の力量によるところも大きいのでしょう。でも、「デザインする状況をデザインする」は、デザイナーにはもっと仕事があるはずだ、という、きわめてポジティブなメッセージを含んでいます。

「誰がために建築は建つか」――今年度のアーキフォーラムの問いかけです。これだけものが飽和していても、潜在的な需要を掘り起こし、欲しい人のところに欲しいものを届ける柳原さん。テレビが欲しいその人は、本当は建築が欲しいのかもしれません。建築を欲しがっているその人は、本当は別のものが欲しいのかもしれません。彼は誰のために建築を(あるいは建築でないものを)建てるか(あるいは建てないか)を、理想や理念としてでなく、身体的感覚として考え、実践しています。


■ビルとコップの区別

学生のころから「建築の視点から家具をつくりたい」と考え、師と仰いだ大島哲蔵氏の事務所に足しげく通った柳原さん。影響を受けた人物として大島氏のほか、アアルト、アスプルンドといった北欧の建築家を挙げます。

柳原さんのものを作る手続きは、建築家に似ています。問いの立て方は要素還元的であり、視線はものコンシャスであり、解法は合目的的です。多くの建築家が柳原さんを評価し、共感します。

でも、柳原さんは住宅やビルをつくるときでも、そこに置かれる椅子やお餅や素麺のことを、いつも考えているように見えます。それに縛られることはないけど、プロダクトデザインのスケールはしっかり身体化されているのだろう、と思わされます。

家具的要素と建築的要素の近接は今日的なテーマの一つですが、柳原さんは別にそれを主題としているわけではありません。むしろ、家具と建築とは別物と思っていそうな気がします。デザイン主体としての関わり方にはビルもコップも区別はないけど、デザイン対象としてのビルとコップはわりと区別しているような印象を受けます。そうでないと逆に、どちらのデザインの品質も保てないのではないかと思うのです。

今回の講演ではこの点には触れられていませんが、いずれ、柳原さんに聞いてみたいところです。


■ローカリティに基づく公共性

もう一つ、今回のレクチャーで明らかになったと思われるのは、柳原さんの提示する公共性の形です。

完全には理解し合えない他者のためにどうやってものをつくるか、というテーマへのアプローチはさまざまです。私と他者の関係を定量化することに関心を向ける人もいますし、徹底的に私であることが普遍性につながると思う人もいますし、使う人自身が関与する作り方を考える人もいます。

柳原さんの場合は、「なんとなく共有している部分」を抽出して操作します。それは、花瓶とは水で満たされているものであるという「先入観」だったり、望月よりも十三夜を美しいとみなす「美意識」であったり、対象との理想的な距離を規定している「身体感覚」であったりします。それらは感情や知性なども含めて人が身につけているものの総体(柳原さんは「記憶」と一言で表現します)に属するもので、個人の歴史のほか地域や時代など複雑なバックボーンによって成り立っていて、非常に多様な情報を含んでいるし、ローカル性の強いものです。

ですから柳原さんのデザインは、最初から公共という問題意識の上にしっかり立っているのですが、それは強力なポテンシャルを持った、ある種のローカリティを根拠にした公共性です。

そして膨大な情報の海からいったい何を「なんとなく共有している部分」として選び出すかは、デザイナー個人の観察と経験に基づいた個別の判断です。思うに柳原さんはこれを選びとる知性が卓越しています。しっぽをつかむのがうまい、とでもいいますか。

個人住宅とマス向けのプロダクトや公共建築とで作り方にちがいがあるのか、という山口陽登さんの質問に、「そこはあまり関係ないですね。自分はデザイナーであると同時にユーザーでもあるので」と柳原さんは答えていました。「なんとなく共有する部分」を選び取る行為は公約数の抽出とはちがうし、また方法を公式化することにも関心はありません。だからデザインするスケールが大きくなっても薄まることがないし、ユーザーが個人でもマスでもやり方を変える必要がないのです。

レクチャー中、倉方さんからこのような指摘がありました。「真実に触れようと思っても永遠にたどりつけない、という現代的テーマに対し、柳原さんはデザインで回答を提示している」。

倉方さんは豆腐に関する白井晟一のエッセイを引きつつ、柳原さんの作品にモダンデザインとは異質なものを見ます。「ものの形は行為、歴史、作り方など、いろんな背景を背負って決まっている。柳原さんのデザインでは、それを少しずらすことで不可解さ、豊穣さを解き放ち、人によっていろんな理解を引き起こす。その現象は背景を知らないと起きないもので、インターナショナルなものではない。建築の世界でいう計量可能なものとしての『空間』からはいちばん遠い」と。

解釈のゆらぎや多義性を表現したデザインである、という指摘です。共有している部分も、共有していない部分も、どちらもデザインに含まれていることを意味します。

完全にユーザーがいいと思うものは作れない、という認識に立ちながら、ユーザーのものでありデザイナーのものでもあるデザイン。誰のために建築は建つのか、という問いに、建築家ではない柳原さんは、誰より意識的であるようにも思えます。



■作品としてのレクチャー

自作についてまとまった講演をするのは初めてだという柳原さん。とてもそうは思えない、見事なレクチャーでした。たくさんのビジュアル資料も前日に集めたといいます。あの壮大な曲を一晩で書き上げたとは。

どんな話題をどう並べて、組み立てるか。それは、デザインする対象にこだわらず、そのものが幸せに存在する状況をデザインする、という意味において、まさに彼がふだんしている仕事の一つでした。このレクチャーそのものが彼の作品であり、彼が言葉で語っていることを、もの言わず雄弁に映し出していたのでした。

 

執筆者プロフィール
たかぎみ江(たかぎ・みえ)ライター、イラストレーター。東京生まれ。京都大学大学院在学中から平塚桂とユニット「ぽむ企画」を結成、建築の楽しさを伝えるべく雑誌や新聞などに記事を寄稿。著書に「京の近代建築」(らくたび文庫)。

 

講師:柳原照弘(デザイナー)

□第3回講演:
建築だけではないこと、その考察/柳原照弘

□日時:2010年6月26日(土)

●略歴
1976年 香川県高松市生まれ。1999年 大阪芸術大学 デザイン学科 空間デザインコースを卒業後、2002年"TERUHIRO YANAGIHARA / ISOLATION UNIT"を設立。オブジェクトの形体や結果だけでなく”デザインする状況をデザインする”ことが重要であると考えのもと、プロダクトから空間までジャンルと国境を越えたプロジェクトを手がける。2009年、KARIMOKU NEW STANDARDのクリエイティブディレクターに就任。2009年、DESIGNEAST実行委員として企画、運営に関わる。

●賞歴
2005年 Stockholm Furniture Fair ワールドツアーセレクション/2006年 MUJI AWARD 01入選/2009年 ベストデビュタント賞 空間デザイン部門/2009年 JCD KANSAI ライジングデザイン賞グランプリ/2009年 iida LSPエルデコアワードYoung Japanese Design Talent 2009/2009年 KARIMOKU NEWSTANDARD 100% Design Tokyo Awards 2009 グランプリ 同展 エルデコアワード、日経デザインアワード/2010年 ミラノサローネ エルデコ“Young Talent of the Year”ノミネート/2010年 Wallpaper “Best pieces from the Fair “