■はじめに
まずコーディネーターの畑氏から、今回のフォーラムでは東京の郊外を拠点に多様な社会要請に柔軟に適応し、多角的な活動を行うメジロスタジオから古澤氏と馬場氏の二名をゲストに迎え、「これからの建築と社会状況」をテーマに、現代だからこそ有り得る建築について話し合いたいということがアナウンスされ、フォーラムが始まった。
■畑氏のプレゼンテーション
進行中のものを含むプロジェクトの紹介を通して、社会状況という切り口からこれまでの設計活動の中で考えて来たこと、またこれからの社会において考えるべきことが語られた。
1.京都の住宅
京都の住宅に関する法規制の問題(=社会的状況)を形にすること。京都らしさを守るための風致条例、景観条例は数寄屋の形態のみを追い掛けたパッケージでしかなく、現代の多様なライフスタイルとは必ずしも噛み合わないのではないか。京都らしさを更新していく事とはかけ離れたこのミスマッチの現状を、現代のライフスタイルに条例のパッケージをかけるという構図を取ることにより、徹底的に露呈させている。
2.バリ島のスパリゾート
バリ島のリゾートと村の住居の関係(=社会的状況)を形にすること。社会主義であるインドネシアでは土地の個人所有が出来ないため、建築は恒久的なものとしては捉えられていない。その状況に対して畑氏はその場所に建築が一番自然な形で建つこと、つまり現地の村の様な建築を作ることを試みている。極めて独特であるバリの気候、風土、植生を読み解き、建築の問題を配置の問題のみに転換している。
3.住宅街の住宅
現代的な家族像(=社会的状況)を形にすること。プライバシーの尊重が重視され、子供も一個人であるというクライアントの考え方に対し、個々に与えた最小限のユニットを並列させることにより集合住宅の様な個人住宅を提案している。
4.モンテネグロのアートセンター
モンテネグロの土地の形状(=社会的状況)を形にすること。棚田の風景のようにその土地に寄り添うことでのみ成立する建築を提案している。具体的には斜面地に建つこのプロジェクトの敷地図からにコンターラインを選定し、機能を当てはめられる場所を発掘していく。現地で最も一般的である石積みを採用し、コンターラインに沿って現存の状態をそのまま浮かび上がらせている。
畑氏の作品群は時間軸のみによらない様々な「社会的状況」を受け入れ、肯定も否定もせずにそのまま建ちあげているようでありながら、ある一定のクオリティを獲得していると感じた。
■メジロスタジオのプレゼンテーション・前半
「地域マネージメント」というメジロスタジオとは別の団体名で行っている、東京の郊外を活性化させる活動について。建築設計事務所であるメジロスタジオのプロジェクトも巻き込みながら、公的な助成金などを投入して政治的な正しさの元に行われる活性化事業とは一味違った、徐々に地域の温度を上げていく様々なアプローチが紹介された。
1.立川空想不動産
郊外の一般的に不動産価値から見たダメダメな物件も見方を変えれば面白いものになる。新しい価値を見出された物件はこのウェブサイトに賃貸物件として集められている。近年、R不動産など似たような取り組みは他でも見受けられるようになって来ているが、メジロスタジオは更に自分たちの作品もそこで等価に扱うことで、「グラマラス」「セクシー」など建築言語ではなくエンドユーザーに伝わる翻訳した言葉を使いながら、郊外の人々がアクセスしやすい状況を生みだしている。
2.サブリース
寂れてしまった商店街の空き家を自分たちの資金で改修して、前述の立川空想不動産で入居者を探し賃料で初期投資を回収する。例として、築45年の木造の建物をシェアアトリエ+コミュニティカフェとして改修し貸し出している物件などを紹介している。
3.パッケージ化した修繕のデザイン
空いてしまっているアパートを解体するだけでデザインする試みである。不動産言語に乗りやすい、パッケージ化した修繕のデザインとして売り出している。建築作品としては位置付けていない。
4.コミュニティラジオ
コミュニティラジオを使ってのまちづくりの試み。郊外に眠っているおもしろい人を見つけて来ておもしろい話を聞く。それが町興しにどういう風につながるのかを番組を通じて考えている。
■メジロスタジオのプレゼンテーション・後半
@ 他者性の実装
これからの社会的状況に建築家はどのように適合していくのか。メジロスタジオは「他者性の実装」によってこれを実現していくと言う。ではどのようにして「他者性」を獲得するのか。古澤氏は2000年の飯島洋一氏によるユニット派批判(注1)を参照し、建築家には強い個性があるべきで、建築を作る際にその発露が先にあるべきだという価値観が支配的だった当時を振り返りながら、一方で作家性を裏打ちする作品はどのように生まれるのかを考えた時、建築家は実はスタディという主観的な判断による誤審を未然に避ける作業を繰り返し行っていることを指摘している。つまりこれは「客観化」の作業であり、意思決定の現場に他者性を実装させていることに他ならないとし、この「他者性の実装」のメリットを最大化し運営方法にまで拡張したものが「ユニット派」であり、メジロスタジオであると位置付けている。
A 他者性の依り代
他者性を実装した建築家ユニットは、更にその設計手法にも他者性を積極的に取り入れようと試みている。「他者性の依り代」というキーワードを用い、それぞれの建築プロジェクトにこの「他者性の依り代」見つけることによって新しい建築の在り方や異なる価値観との同居が生まれる可能性を示唆している。まず既存の不動産言語を「他者性の依り代」とした立野の住宅では、工務店により作成されたプランを受け入れつつ批判し、東府中の集合住宅では一般に理想的とされる不動産的な間取りを曲面のファサードと組み合わせ、今までに無かったような空間を作り出している。また他の「他者性の依り代」として、「法規制(瀬田の住宅)」や「既に流通している建物言語(バルコニービル)」、「既存躯体(階段室型の団地の再生計画)」、「既存の都市(都市の深層構造を読み解くトレーニング)」などを挙げている。
■ディスカッション
両者のプレゼンテーションを経て、互いの考え方、取り組みについて、他の建築家からの質問を交えたディスカッションが行われた。
1.「象徴性」を要請する社会状況
価値観が多様化し共有しづらくなっている現代において、個人が主観的に個性を振りかざしてものづくりをすることが難しくなってきている一方、3.11後社会は建築に何らかの象徴性を求めているという実感がある。これまでの宗教建築のように象徴する対象が多数である状況は現代の多様な価値観の上では考えにくく、また、超高層のタワーが帯びるような未だかつて見た事の無いものに対して生まれる象徴性も現代では求められていないだろう。では畑氏とメジロスタジオが意味するところの、また目指す象徴性とはどのようなものなのか。
2.畑氏の象徴性
社会的状況を読み取り、時に否定のスタンスを取りながらも、畑氏の建築自体は端正なたたずまいを持ち、ある種模範解答的であると森田一弥氏。社会的=アンコントローラブルなものを扱うことと捉え、そのアンコントローラブルなものに対する問題意識から建築を組み立てる。その建築が汎用性やある程度の共感をもたれる解答であった時、建築は象徴性を持ちうると考えている。
3.メジロスタジオの象徴性
建築の他律性をオーバードライブさせた結果により発せられる自立性を目指しているように見える、と島田陽氏。古澤氏によれば、「コンテクスチュアリズムに陥らないが周りから断絶した状態ではない=自律している状態」であり、社会とは接続しているが、建築として自立しているような建築がある種の象徴性を帯びるとしている。
建築を統合した時点で何らかの象徴性を帯びてしまうのは自明の事であろう。「建築の象徴性」という切り口から両者の取り組みを見たとき、両者はそれを選択的に、あるいは排他的に現代の社会状況の中で成立させているのではないだろうか。
■まとめ
@ 他者性について
他者性の話を聞いた時、まず自分が独立の際に他者性を強く意識した出来事について思い出した。事務所スペースを借りる時に、事務所の名前と基本方針みたいなものを聞かれた時のことである。改めて考えてみると、私が過去5年間勤めていたH&deM(注2)の&がとても素晴らしいと思った。自分は個人で独立したものの、そこで学んだ経験や設計の手法はまさにそれなのだという気付きから事務所の名前を決めた。高濱史子建築設計事務所の前に付けている、+ft+は、「 +ft」で、今までの場所に私のフィルターを通して生まれる新しい景色、「ft+ 」で、スタッフを始めプロジェクトに関わる様々な方たちとのコラボレーションによって初めて生まれるものづくりを目指していることを示している。メジロスタジオの言葉を借りるならば、これはある種他者性の実装の表明とでも言えるだろう。
A 新しい建築のことば
新しい建築は新しい建築のことばによって語られるべきなのだろうか。建築を語る言葉の新しさ=建築の新しさとでも言えるような状況はすごく日本的で特異だと感じた。過去8年間英語だけでなく、さまざまな言語にふれてきた筆者は建築における言葉を説明のためのツールとして使ってきた。言葉を重ねていくことによる意味追求は難しく、常に言葉の前に模型や図面でのコミュニケーションがあった。しかし帰国以来、日本語で語られる建築の言葉がそれ以上の力を発揮し、建築家が自ら自身の作品や設計活動を評価・解釈するという状態を目の当たりにしている。それ故、このレクチャーは実に新鮮で刺激的であった。今後の日本での設計活動において、プロジェクトをドライブし得る新たなパラメータとして「新しい建築のことば」の必要性をひしひしと感じている。
注1:飯島洋一「『崩壊』の後で──ユニット派批判」(『住宅特集』二〇〇〇年八月号、新建築社)
注2:Herzog & de Meuron (ヘルツォーク&ド・ムーロン、H&deMと表記されることが多い)
スイスのバーゼル出身のジャック・ヘルツォーク(Jacques Herzog)とピエール・ド・ムーロン(Pierre de Meuron)の2人によ
る建築家ユニット(Wikipediaより)。