■「ことば」をさがす。
「新しい建築のことば」を探す。今年のアーキフォーラムのテーマそのものを原初的に体現した対話だったように感じた。僕らの世代に醸成されつつある建築という操作対象との距離感、あるいは世の中に生まれつつある「状態」を示すことばをさがす思索の場に同席したかのような感覚である。コーディネーターの今津さんが会話のきっかけを紡ぎだし、長坂さんがそれを反芻するかのように自分の中に取り込んで、それをことばに表してみる。そのようなおおらかな時間が会場に流れていた。ふたりの建築に対するアプローチ、そしてふたりが生みだす作品の空気感は、まさにこの日の対話をとりまいていた柔らかくも少し張り詰めた空気とシンクロし、この2時間に発せられたことばの数々に体現されていた。
■「自由でいたい。」
正面のスクリーンいっぱいにデカデカと映しだされたこのメッセージとともに長坂さんの話は始まる。至極単純でありながら、聞き手によって読解の振幅が大きいであろうこの「自由」という言葉は、「抜き差しなる関係」、「ひらかれたプライベート」という2つのキーワードを手がかりにして輪郭が徐々に型取られていく。長坂さんは、竣工時にカンペキを作ってピークをむかえ、以降クライアントによってその美しい姿が崩されていく様子にヤキモキしてしまうことに居心地の悪さを感じるようになったという。つまり、従来の建築家はクライアントにその緊張線を冒されてしまうことに常に不安を抱いていたんじゃないか、モダニズムは建築家とクライアントの間に「抜き差しならない(・・・・)関係」を作りあげてしまっていたのではないか、と考えるようになったとのことである。そのような緊張関係から「自由」でありたいというメッセージとして「抜き差し関係」ということばが提示される。
さらには、都市を生活する僕らは普段プライベートとパブリックをon-offという明確に切り替えているわけではなくonとoffの間を自由に行き来して日常を謳歌している。そう考えると僕らは所有がはっきりしているプライベートの領域をもっと都市に拡張しても良いのではないか。つまり、機能が定着された西欧的パブリックではなく、個人の領域であるプライベートをズルズルと都市に開くことで「自由」が断続的に拡張されるし、むしろその状況が心地よいのではないかと言い、長坂さんはこの状態を「ひらかれたプライベート」ということばを用いて説明する。
今回の対話の対象であったShopデザインとはまさにプライベートなる個人の日常と公共たる社会(あるいは資本主義がもたらす社会システム)の境界面をなすビルディングタイプとも言える。Shopとは見ず知らずの店主と人、モノと人が日常生活の中で接触するインターフェイスとしての「器」あるいは「場」であり、そのインターフェイスたる「場」を操作する行為そのものがShopデザイン(インテリアデザイン)でもある。
■他者性を許容する「らしさ」
更地に建てる新築の建築物とは違ってビルインのShopインテリアは前提として参照されるべき既存の姿がすでにある。つまり既存の空間(器)がまずあって、あらかじめ規定されたリースラインの内側のみをデザインの対象として扱って良いという制約からスタートする。これに加えてちょっとした規模の商業施設ではビルオーナー側が用意した様々な制約がリースラインの中にまで介入する。すでに存在するビル側の躯体はもちろん外装のサッシは変更できないし、Shopサインの位置や大きさ、照明の色温度や照度まで指定されることなども往々にしてある。これが唯一無二の根拠とは言い切れないとはいえ、入居するテナント側は介在される外的制約からShopブランドの「世界観」を守るべく外界との関係を遮断する、といった箱庭的対処が街中にて支配的たりえる。
に、対してふたりはもともとそこにあったもの(制約)をデザインの大切な素材として自らに取り込む、あるいは前提条件となってしまっている制約ひとつひとつを分解し取りつくシマとなりうるものへと昇華させていく。今津さんは最初にスケルトン状態の既存写真を用いてそこにあった状況を丁寧に紹介し、長坂さんは元の設計者の残したデザイン(状態)をわざわざ解説する。つまり、あえて既存の状況を掘り起こしてから自らのデザインをスタートするという姿を見せる。まったくの白紙からオリジナルの世界を描くのではなく、地形(既存の躯体)、 時間(あるいは履歴)、法的制約(デベの制約)という既存の状況(コンテクスト)をいったんインテリアの領域内に組みあげてからアプローチしていく。長坂さんが「抜き差しならない関係」から開放されたと語った「Sayama Flat」での既存の時間を巻き戻すかのような減築あるいは残築というべき手法はその最たるモノであるし、「Today’s special」においては過去のデザイナーの履歴をすべてオープンにする。そして直近の作品である「EEL Nakameguro」に至っては「途中」をデザインしたと正面きって言い切ってしまう。通芯の墨が残るスケルトンの空間、ポコポコと並べたラワンの箱、溶接でたわんだままの姿見、研磨痕がそのまま残されたレジカウンター。いかに何もしていない状態を緻密につくるかを包み隠さず話し、既存の状態からデザインに至る過程を「途中」の状態として終わらせる。まさに途中でピタリと時間が止まってしまったかのようにしてその手を離す。あとは「途中」である状態をユーザー各々が解凍するのを楽しみに待っているかの様に、である。
同様に今津さんは他者(ユーザーあるいは客)の培ってきた経験をデザインの「伏線」として空間に仕込む。大阪中津のセレクトショップ「rroomm」では、既存の点検口、扉状に型どられた鏡、扉状に塗り分けたペンキ、そして唯一客が本当に開くことができるフィッティングの扉がランダムに並ぶ。ワンルームの空間内に「もともとソコにあった扉」と「さも、もともとソコにあったかのように新たにデザインされた扉、あるいは扉状のもの」を混在させ、扉の向こうには空間があるというユーザーの原体験を通して単なるワンルームの空間に無限の奥行を重ねる。そして京都二条のパン屋「panscape」には、「小さな空間にストレスを与えたいと思って…」と壁面の足元に小さな穴を用意する。なにげに店に来た親子は、この穴がネズミの穴なのかネコの穴なのかと物語を創作し始めるとのことなのだが、この瞬間この親子の意識の間にはパン屋の小さな空間の中に居ながらにして「その壁の向こう側」が立ち現れていく。
ふたりは共通して他者という不確かな存在をデザインの素材としてフラットに空間に並べる。インテリアという限定された操作対象の中に、ユーザーあるいは客が感情を挿入する場所、参加できる余地をあらかじめ用意する。正確には、操作できないことを前提として空間に受け入れているようでもある。長坂さんの「Today’s special」「TAKEO KIKUCHI SHIBUYA」「Floyd KITTE Marunouchi」などでは、什器の森を歩きまわる人をイメージするかのように、客がそこを回遊しながら歩きまわれる自由な平面をつくる。そして今津さんは「LE CINQ」で、パキラの木を中心に鏡を卍型に配置し、客の動きに応じて変化する映り込みを空間のパラメーターの中心に据える。ふたりはあたかも都市の日常がシームレスにShopに引きこまれたかのような、プライベートとパブリックがずるずるとつながっているかのような、もしくはインテリアの内側にふわりと都市性をまとわせるかのような状況を志向しているようでもある。
■世代が醸す匂い
最後に今津さんは青木淳さんの著書「はらっぱと遊園地」を引用して、自身も含めて長坂さんはどこか当時の青木さんの言説にシンクロするものがあるのではないかと問いかける。長坂さんはこの投げかけに対して、この感覚は僕ら世代みなが感じ自然と立ち現れていた「匂い」のようなものだったのではないか、それを真っ先に嗅ぎ分けることが出来たのが青木さんだったのではなかったかと当時の状況を回想する。つまり、ふたりのすこし上の世代である青木さんが当時の僕ら世代から立ち現れていた匂いを嗅ぎ分け、醸成された表現で語り始めたのではないかとのことである。そして、僕らの世代は今それを「ことば」ではなく身をもったリアリティとして自由に、自然に、違和感なくそこに実現できてしまうのだと。
いざ、「建築の新しいことばとは?」と問うても、個々に建築という対象への関わり方は異なるだろうし培ってきたコンテクストにも各々微妙にズレがある。当然世の中には建築という土壌にまったく足を踏み入れたことがない人もいる、いや世の中ではそれが大半だったりもすることを考えると「新しい」の射程は大きく振幅をもったものとして捉えるのが自然であるように感じる。「新しいことば」が示すのが、今の世代が醸しだす「匂い」の総体のようなものであるとすれば、その総体が形作る「匂い」の輪郭を次の「建築のことば」に置換するのは今建築に携わる僕らの役割ではある。同時にその「ことば」は建築の内側にシュリンクしない、ローカルに陥らない、建築という世界を軽くとびこえた「『社会』と建築をつなぐ新しいことば」であらねば僕らの「生活」「社会」には効き目がない。本日のテーマであった「抜き差しなる関係」とは、まさにこの「社会」と「建築」あるいは、「ユーザー(他者)」と「建築家」をつなぐ状況を示す態度表明のことばともいえるのだが、それ以上に、朴訥にして飄々と語るふたりの姿そのもの、あるいはふたりの「匂い」のむこう側にそのことばをこえた「新しい」の輪郭が見える、そのような感覚に陥るような深甚さがとても印象的だった。